おはようございます。昨日は人前で喋る練習会があり、頭が真っ白になった桜井です。(精進します)
先日、相模原に養護施設で凄惨な殺人事件があり、連日ニュースを賑わせていますね。
犯人の植松容疑者は狂った殺人者であるのは間違いありませんし、被害者の方を思うと自分も激しい怒りを覚えます。
しかし、私が連日の報道で注目したのは彼が言っていた「障害者は哀れでかわいそう」という言葉でした。
障害者は不自由であっても不幸ではありません。
むしろ誰より日々を一生懸命生きています。
哀れでかわいそうだったのは彼自身です。
希望の仕事に就けず、介護の仕事にやりがいを見出せなかったのでしょう。
日々、誰にも認められず何のために生きているか、わからなくなる時は誰にでもあります。
そんな状況では思考のフィルターが歪んでしまい自分を正当化するための行動に出たと考えられるのです。
障害者に社会保障費を使うのは無駄で許せないというのは建前で本当に許せないの自分の理想とする人生を生きられなかった自分だと思います。
人を赦せるか?という深いテーマがありますが、自分なら「人を赦せない自分をまず赦そう」と答えます。
理不尽に踏みつけられたら許せないのは当たり前です。そうでなかったら異常でしょう。
ですが人生に「たら、れば」はありません。
起こるべくして起きたことに後悔しても時間の無駄なのです。
私はこれに気づくまで20年以上かかりました。
失ったものより得たものを探す。
とても辛い作業ですが、これができないと未来へ軸足を移すことができません。
自己憐憫の箱に止まる時間はなるべく短い方がいい。
それにはフォーカスチェンジするしかないのです。